ダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡の子供にも錦戸太郎、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
 いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍などという水滸伝式の渾名を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿というのに斂められている。さきごろの出水に頽された広瀬川の堤を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然とそびえている。
 わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
 彼は五十以上であろう。色のやや蒼い、痩形の男で、短く苅った鬢のあたりは斑に白く、鼻の下の髭にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣に小倉の袴を着けて、白足袋に麻裏の草履を穿いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
 わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面を掠めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉が破れた笛を吹くように咽んでいた。
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