旦那を鉱山へ還してから、女が一里半程の道を俥に乗って、壮太郎のところへ遣って来るのは、大抵月曜日の午前であった。
 家が近所にあったところから、幼いおりの馴染であった、おかなと云うその女が、まだ東京で商売に出ている時分、兄は女の名前を腕に鏤つけなどして、嬉しがっていた。そして女の跡を追うて、此処へ来た頃には、上さんまで実家へ返して、父親からは準禁治産の形ですっかり見限をつけられていた。
 日本橋辺にいたことのあるおかなは、痩ぎすな躯の小い女であったが、東京では立行かなくなって、T――町へ来てからは、体も芸も一層荒んでいた。土地びいきの多い人達のなかでは、勝手が違って勤めにくかったが、鉱山から来る連中には可也に持囃された。
 おかなは朝来ると、晩方には大抵帰って行ったが、旦那が東京へ用達などに出るおりには、二晩も三晩も帰らないことがあった。二里ほど奥にある、山間の温泉場へ、呼出をかけられて、壮太郎が出向いて行くこともあった。
 おかなは素人くさい風をして、山焦のした顔に白粉も塗らず、ぼくぼくした下駄をはいて遣って来たが、お島には土地の名物だといって固い羊羹などを持って来た。
 女のいる間、お島は家を出て、精米所へ行ったり、浜屋で遊んでいたりした。
 精米所では、東京風の品のいい上さんが、家に引込きりで、浜屋の後家に産れた主人の男の子と、自分に産れた二人の女の子供の世話をしていた。
調布市 リフォーム



このサイトは無料ホームページ作成.comで作成されています