小夜子は独逸の貴族の屋敷に、老母もろとも同棲することになってから、かつては幾年かのあいだ、一緒に世帯をもったことのあるその男の名前や身分を、庸三に語るだけの興味すらすでに失っていた。
 話しているうちに五反田へ着いた。そして長々と生垣を結い繞らした、木立の陰のふかい××閣の大門の少し手前のところで、小夜子は車を止めさせ、運転士をやって訊かせてみたが、そういう方はまだ見えていないというのであった。それと同時に、ぱっとヘッドライトの明りが差して、一台の自動車が門から出て来てこっちへカアブして来た。そのルウム・ライトの光の下に、野暮くさい束髪頭の黒羅紗のコオトに裹まって、天鵞絨の肩掛けをした、四十二三のでぶでぶした婦人の赭ら顔が照らし出されていたが、細面の、ちょっときりりとした顔立ちの洋服の紳士が、俛きながら煙草にマッチを摺りつけていた。庸三は何か胸糞の悪いような感じで、この家の気分もおよそ解るような気がした。今まで庸三は、あの風采の立派な博士の傍で、わざと原稿など書いて見せて、あるいは得意そうに読んでみせたりして、無邪気に女流作家の矜りを誇示しようとしている、葉子の顔や様子を、その一つの部屋のなかに幻想していたのだったが、それもあえなく形を消してしまった。
福岡市 歯科



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